【乙和ノア】暮夜の会合 〜ノア〜(3)

 路地を進んでいく。

 用水路のせせらぎが聞こる。

 全ての物音は狭隘な空間に反響し、湿った足音は絶えず鼓膜を揺らし続けていた。

 先行する乙和が言った。

「なんかさ・・・こういう場所、色々と想像しちゃうよね」

 声とは、顕著に当人の精神状態を表してくれる。

 何が言いたいかというと、おそらく乙和はいささか怖がっているんだろうなぁということが伝わってきたのだ。

 明朗快活おてんば娘といえども、やっぱり形而上的概念は苦手か。

 私に弱みを見せるとは、ちょっと背後に警戒が足りないねぇ。

「ま、確かにね。・・・例えば、反響する足音。まばらに鳴って交錯する足音が、二人だけのものとは限らないかも」

「お、おぉ・・・」

「あとはそうだなぁ。右手に見える明かりの灯らない民家。不可視の監視者なんかいそうじゃない?」

「あ、え、へ、へぇ・・・」

 欲しい反応をしてくれる。図にのらせてもらって、もうちょっと。

「ほんとに用水路なんてこの近くにある?」

「うぅ・・・」

「道脇の黒いゴミ袋・・・何が入ってるんだろーーーー」

「もう! 怖がらせないでよ!」

 げ、叱られた。

 からかう意思があったことは確かだ。素直に謝る。

「ごめんごめん」

「もう早くこんなとこ出ようよ・・・」

 ここまで弱気な乙和を見るのは久しい。

 普段は怖気付くこともなく、質実剛健になんにでも立ち向かっていきそうな気概がある。乙和の腰が引けたところを見られるのは、注射と姫神プロデューサーを前にした時くらいな物だ。

「そうだねぇ。そもそも、どうしてこんなところに入り込んだのかってところが疑問なんだけど」

「え、私はノアについてっただけだよ・・・?」

「わたしも乙和に・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 同調現象のバッティングだ。

「原因なんてどうでも良いよぉ。早く出よう」

 ま、確かに原因なんてどうでも良いか。

「ビビり過ぎ。そうだね、早く出よう。多分、真っ直ぐ行って突き当たって右に行けばーーーー」

 

 ダン!

「みゃ〜」

言い切る前に、大きな物音にかき消された。次いで聞こえたのは猫の声。路地の左側に伸びる通路を、猫がポリバケツを踏み倒して横断したのだ。

 びっくりしなかったと言えば嘘になる。心臓がピクリと跳ね上がり、脈動が轟々と激しさを増していた。

「・・・・・・」

 しかし、それは割と取るに足らない問題だったりする。というのも、音が鳴った直後にそれ以上に驚くべきことが起こったからだ。

「きゃぁあ!」

 甲高く冴えた喫驚の声は乙和。恐怖で飽和した乙和の内心に、あの音は決定打を与えたみたいだった。

 そして今・・・乙和は私の胴体を力一杯に抱きしめ、胸に顔を埋めている。満腔はプルプルと震え、「んー、んー」と声にならない感情を吐き出している。

 そこまで怯えることかな・・・。そう思った直後に、その思考を打ち消した。

 私の価値観を押し付けてはいけない。怖いものは怖い。恐怖心の多寡だって人それぞれだ。

 あちゃあ。

 申し訳ない気分。私が乙和の恐怖心を煽るようなことをしなければ、ここまで怯える様なことにはならなかったかも知れない。

 現代文の問題。乙和という女の子の心情を図り間違えた。減点。

 友達としても、減点。

 せめてと思い、私も乙和を抱き返す。首と背中をぎゅっと抱き寄せ、乙和的にも楽な大勢をとらせる。

 こうして触れてみるとわかる。私の衣服を握りしめる手、締め付ける腕、首、胴体。そのどれもが頼りなく細く、乙和だって、小さくてか弱い一介の女の子であると再認識させられる。胸はすごいけど。

「うぅ・・・」

 涙ぐんだ声だ。

「ごめんごめん。大丈夫大丈夫」

 そう何度も言い続け、その度に頭を撫でる。

 少し湿っている。お風呂にはもう入ったのだろう。

 曲がりなりにもアイドルを目指しているだけある。手入れの行き届いた髪は、ヘア用品店にあるサンプルみたいにサラサラだった。

 

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 手を引いて路地を出た。

 それからまた並列でしばらく歩き、伴って徐々に、乙和のなかにあった恐怖の残滓も薄れていったようだった。

 今日はちょっとおいたが過ぎたなぁと反省。また一層乙和が機嫌悪くして尾を引いたら、レッスンにも影響しそうだなぁ・・・。

 などと危惧していたのだけれど、それは結果杞憂で終わった。

「そうだ! わたし行きたい場所あったんだよねぇ」

 なんか機嫌が良くなっている。というかなんだか、初めよりも上機嫌になっている気がするのは思い過ごしか。

 あまり気にしてないみたいで良かったけど・・・。やっぱり今夜の乙和は、いつもより分からない。

「へえ、どこ?」

「えっへへ、内緒。着いてからのお楽しみだよ」

 否が応でも、気になる言い方をしてくれる。小癪だ。

「いいよ、乗ってあげようじゃないの。その代わり期待するから」

「ぜんっぜんしてくれて良いから。むしろいっぱいしてよ、期待はされればされるほど、超え甲斐があるってもんでしょ」

「流石はプロ」

 そういう仲間がいてくれると、こっちとしても頼り甲斐がある。安心して隣を任せられる。

「お客さんの期待は毎回超えてるつもりだよ。だから今回も」

 そう言って、乙和は私の手を取った。私の右手が、乙和の左手に包まれる。

「ノアをあっと言わせるから」

 首を傾げてウィンク。キュピッと脳内でSEが流れた。

 目的地まで、この手は離してくれなさそう。

 なんだか好きで手を繋いでいるみたいで小っ恥ずかしいけど・・・だれもいない事に免じて今回は許してあげますか。

 乙和は私の斜め前を歩き、私を牽引していく。

 どこに連れて行かれるのやら。

 ともあれ、私たちの暮夜の終わりも、もうすぐそこに迫っているだろうなと、そんな気がした。

 

                  ーーー続く