文字を生成するという、私個人の価値。

 書きちらし。

 具体的な意向もなく、ただただ脊髄にて生成される文字をキーボードで打ち込んでいく作業に興じてみる。書き終わったあと、達成感とともに果たして益体のあるものが眼前に羅列されているのか、あるいは駄文のみが白紙を無為に埋めているのかはさしあたっては杳として知れないところである。未来がどうなっているかは知りようも無いが、未来を地道に埋めていくのは誰でも無い私自身であるから、展望はある程度明瞭でなくてはならない気もするが、一文字打った次に何がくるのか、それすらも今は暗中に漂っている。文章を書くとは暗中を模索すること。であるため、書き散らしとはいわゆるトレジャーハントである。

 

 私は文を生成するのが好きなのである。これは文章を書くとはまた違った嗜好のあり方である。

 暗闇を探索するのが好き。道順や指針に沿って歩くのはどうも苦手なたちで、なるべくしたくない。でも世を渡り歩くべくして生まれる文章は、ある程度枠組みや構成、テンプレートが決まってしまっている。履歴書や資料等々、文章を小綺麗に並べる作業は、逆に頭にモヤがかかる。これは私に文章を書く才能がないということを意味する。現に、小綺麗さを求められる場においては、私の文章が評価されたことは一度もない。むしろ他人より劣る。楽しくないことはしたくない、でもしなくてはならない、その割り切り方を私はモラトリアムの中に忘れてきた。

 しかし、気の赴くままに書き連ねた文は、割と他人からも評価される。私自身も要は筆が踊り狂っている状態の中書いているので、生き生きした文章はなんだか良いように目に映る。現に楽しいし、満足感もある。この満足感こそ、私が文を生成する際に感じる嗜好となる部分である。

 得意であることと好きであることは必ずしも一致するわけではない。そう容易く一致するのならば、世のスポーツ業界は人員過多となり、直木賞の受賞枠も6個くらいに増やされるであろう。夢とは叶わない前提のもとで目指すものである。得意でない人間が成功しない道理は無いが、好きと得意が一致している人間は私の知る限りそれなりに成功しているので、そこんところの因果関係をあえて否定する人間もいなかろう。

 私は文を生成することは得意であり好きだが、文章を書くことは得意でも好きでも無い。では何が言いたいかと言うと、私は今幸せだからいいやと言うこと。この文章は一発書きで書いている。バックスペースも今のところ3回くらいしか使っていない。前の文がこういう文だから、こう続ければうまい具合にまとめられて、区切りがいいかなくらいしか考えていない。ほら、得意でしょう。でもみなさんお察しの通り、脈絡がなければ社会的、文化的価値のある文章では決して無い。多分伝記でも無い。エッセイみたいなもん。私の文章を読むくらいなら100円均一の小説のあとがきや解説を見ていた方が百倍、いや千倍は司法試験や公務員試験、その他国家資格受験の取得に役立つことは請け合いである。一介の素人の戯言だと思って聞き流すがよろし。

 斯様な性質であるため、学生時代から感想文や論文にはあまり困らなかった。マスが埋められず汲々となる人の気持ちがわからなかった。それは私が、それっぽい駄文を書く天才だったからに他ならない。この自尊は、自分大嫌いな私が唯一誇れる部分なので批判は受け付けない。受け入れるつもりもない。親指咥えて見ているがいいデス。

 将来の役に立たない趣味が、予測しないところで役立つ時がある。であるため、好きという気持ちにはなるべく従順にしたがっておいた方が良い。「こんなん何にもならないよぉ」と嘆いている暇がなるなら、その分野で一番になってみろ。人が感じる、普遍的価値、それに都合よく答えられる人間の方が少ないのだ。無為で良い、無意味で構わない。自分の持つ価値、それを自分だけは認めてあげろ。なんか上手い感じにまとまったところで、私は筆をいよいよ置く。

 P.S.

 一度だけ駄文が、公の場で評価されたことがある。

 それは中二の頃だった。従兄弟に頼まれて、修学旅行で習った戦争に関する感想を書けという課題を引き受けたことがあった。私は修学旅行で東京に行き、従兄弟は米軍基地がある沖縄に行った。当然沖縄にて学んだことを書かねばならないのに、行ってすらいない場所で、従兄弟が勝手に学んできた事について、余所者の私が書かねばならなかったのだからそりゃあ困った。しかしその時点で、己の駄文を書く才能には気づいていたので、沖縄にて従兄弟が学んだであろうことは度外視に、私自身が戦争についてどう思うかを如実に記述した。それっぽいことが書けて、その時私は大いに満足したものだ。そのことはその時点での出来事であり、過去の勝手な満足など、時が経てば私はすっかり忘れていた。そんな時、例の従兄弟から連絡があった。曰く、「感想文が素晴らしかったから、お前が書いた文章を俺が全校の前で読み上げた」とのこと。私が何を思ったか、「なん・・・だと」。当たり前である。私の、言って仕舞えば恣意的オ○二ーが他校の全学に知れ渡ったというのだ。思わぬ高評価に些少の嬉しみもあったが、やはり羞恥は強く感じた。私の駄文が評価された、後に先にもない出来事。このことは今尚語り草となっているが、やはり若干むずがゆくなる。

 評価されるために、私は文章を生成しているのではないぞ! と。

 隙自語失礼。ここでお待ちかね、いよいよ私は筆を置く。