第二回湯煙の気ままな瓦版 〜尊敬と憧れと理解〜

 

 私はよく嫉妬する。

 自分がいかに怠惰な人間であるかを誰よりも理解しているのにも関わらず、他人の成功が妬ましくてしょうがない。その成功の陰でどんな経緯が存在しようとも、そんなものこちとら知らんとそっぽを向き、ひたすらな僻みをのべつまくなしに垂れ流す。

 こうして改めて己を顧みてみると、ろくな人間でないことこの上ない。

 一度だけ改心を試みようと、己の魂に慎ましさを念じてみたことがあるのだが、やはり意識するだけでは根本的な解決にはなり得ないと知る。そして別に変えんでええのでは無いかと思い直すまでが我が性分であった。

 しかし、嫉妬という感情は世俗的なものであるというのも事実である。嫉妬は世に溢れかえり、石を投げれば誰かに嫉妬していない人間に当たる方が確率は低いのでは無いか? 「私に石をぶつけられる程のコントロール! むぅ、妬ましい!」と新たな情動を生み出してしまう嫉妬の権化もこの世には存在するかもしれない。嫉妬という感情は当たり前と見るのが正しいのかもしれない。

 そこで思うのだが、嫉妬とは言わば憧れと紙一重である。

 大谷翔平を例に挙げよう。無理だなんだと野球界が騒ぎ立てる一方で、二刀流をいとも簡単(かのようにみせただけかも知れないが)に成し遂げ、今やメジャーで大活躍を見せている。

 そこで問おう、嫉妬の権化たちよ。あなたはいかにもな成功を収めている彼に嫉妬するか? 嫉妬の権化である私が代表して答えよう。

「んなわけあるか」

 そう、彼はすごすぎる。間違いなくスター。第二宇宙速度を超える飛躍に、もはや彼の軌跡を見ることすらも諦めるレベルの超人である。野球に本腰を入れている人間でも、彼に憧れ、そうなりたいと虚心で思える人間もそういないであろう。

 すごすぎる人間には、人は嫉妬することすらも諦める。

 その考えから導き出される結論は、人は成し遂げられると思えるレベルの他人にしか嫉妬をしないということ。この文では嫉妬=憧れであると説くわけだが、オオタニサンに人類が抱くのは主に「尊敬」である。

 私は小説を書いている。創作している人間であれば、おそらく嫉妬は付き物。すごいと思う反面自分にだってと思うこともあれば、端っから鼻で笑い私の方がと思う場合など、各々まちまちな感情を抱く。私はたいてい後者に位置付けされるが、ともすれば行動にはならないのが常である。なにせ怠惰であるから。

 膨れ上がった嫉妬と自尊心、渦巻く感情に支配されゆくばかりである私は他人の書物を読むことすらも拒絶するようになった。ひどく自分が惨めに思えるから。自我が目前をちらつき、連なる文章を見栄というフィルターがひどく面白みのないものへと変えていく。日が経つにつれ、媒体を問わないあらゆる作品を、素直に楽しめなくなっていったのである。

 しかしそんな渦中にいながらにして、私を素直に楽しませてくれるものがあった。それは作家ー森見登美彦氏の作品であった。

 初めて出会ったのは高校一年、ふと観たアニメ「四畳半神話大系」の世界に魅了されたのが彼の作品との邂逅だった。

 新古書店で初めて彼が書いた原作を読み、アニメとは違った文章ならではの面白みに心はすでに鷲掴みにされていた。古めかしい文体を痛々しいともくどいとも思わなかったのは、のちに知る彼の境遇と教養によるものであったのだと思う。

 そこから四年ほど、彼の作品は自室の本棚のわかりやすい場所に並んでいる。最近新作である『熱帯』の文庫版が出たので、ネット予約をして買った。個人的にはハードカバーよりも手のひらに収めたい性格なので、待っていた甲斐があったというもの。早速今読み進めている。100ページあまりを読んだ段階でこの文を記しているのだが、机上に置かれた『熱帯』の表紙を一瞥するだけでも、視線を滑らせインプットした、脳内に果て無く広がる砂漠や宮殿、奈良や京都の風景を思い出して気分が高揚する。とっととこんな独善描き終えて、早く脳内世界に隠居してしまいたくなるのだが、さっさと終わらせるということが出来ないあたり、私もまだ書き手としての矜持が残っているらしい。それにすこし、筆がノってきているので。

 上記の通り、すっかり心奪われているわけだが、嫉妬深い私がここまで熱中できる理由は一つしかない。彼に私は、尊敬の念しか抱いていないからである。彼にはなれない、そう深く理解できるから、彼を私という存在に当てはめず、第三者として作品を楽しむことが出来ている。

 小説を書いている人間には共通していることかも知れないが、書く文章には少なからず、かつて読んだ作品や、作家の手癖が憑る。そこに自分という一本の軸があり、それを基に文章は生まれている。

 高校時代、私は森見登美彦氏に影響されるあまり、真似て書いてみたことがある。今思えば恥ずかしい話だ。そして見返してみると決まって痛々しいものである。

 彼が宣伝される時の決まり文句に森見ワールドというものがある。それは小説の内容にも言えることだが、彼の綴る文章そのものにも言える。彼は独特であり、それを一貫して突き通し続ける。どこかで読んだのだが、どうやら彼はそういう思考法でしか小説を書くことが出来ないのだそう(今はわからない)。悪く言えば恒常的で変遷がない、しかし一芸に秀でることで普遍的な価値が生まれることもある。彼はまさしくそういうことだと思う。

 他の人間には真似することが出来ない。真似しようと思い立ち、はたして書き上げることは可能だろう。しかしいざ出来上がったものを見てみると、コレジャナイ。彼は独特の思考法で、独特の構成と文章でお話を作る。彼の書いた出版物を読み、紙面に綴られた文章を本人ではない他人が勝手に解釈し、模写しようものなら出来上がるのは独創性もくそもない贋作である。

 到底到達することのできない領域。彼が自分にとって、上か下か横か、どこにいようとも彼の周囲には近づくことすらもできない。だから私は彼に嫉妬をしない。「変な人だなぁ」と俯瞰しながら修学旅行で行った京都と文中の京都を見比べていそいそとページを繰るのである。

 なぜこれを書き記そうと思ったのか、30分前に自分に聞いても首を傾げるだろう。だから深くは考えまい。ただの衝動であろうから、綴られているのは一発書き、構成も考えなし、ひたすらに頭の中を洗いざらいタイピングしたクソ文である。多分誤字もある。

 だが、心のどこかが晴れた気がする。これが散文の良いところ。

 文章の中でまで、私に責任を問うことはできまい。