無題

 私は怠惰な人間です。平たく言えばやる気がない。感情をコントロールする意思の強さが、決定的薄弱なのです。

 やりたくない事にやる気が湧かないのはそれはある種必然です、しかし怠惰という性質の悪質なところは、やらなくてはならない事、やりたい事すらも一まとめにして体が動かない。理性をやりたくないという感情が押し殺す。自分の意思に基づき、自分の望む方角へ自身の足で歩み始めたとしても、初心を忘れてぐーたら三昧。やがて自分の求む展望や野望までも記憶の彼方へ忘却してしまう。そして結果として、自らが定めた望みすらも満足に叶えられなかった、そればかりが残る。

 要は、意思と気持ちが噛み合わない。やりたい事はやりたい事であるべきだ。でもいつしかやりたい事に義務感が芽生え始める。私は勉強が嫌いである。それはやるべきだという義務が発生しているからである。当初やりたかった事と、初めからやりたくない事、その両者の行き着く場所は、どうしてかいつも同じになってしまう。それ故、やりたくないという感情が平等に芽生えてしまう。結果夢は叶わない。アンビバレンスの中央で、膝を抱えて咽び泣く終いである。

 

 私がよく覚えているセンテンスにこんなものがある。

「夢を抱くとは呪いである」

 人は夢を抱いた瞬間、その人生にはレールが敷かれる。そのレールは、元とから敷かれているレールに近しいこともあれば、まったく別、あらぬ方向へ敷かれる場合もある。だがどっちみち、歩くべきだと定められた道から、一歩や二歩逸れる事には変わりない。その道は自我の道である。歩き、進めば進むほど、元の道は遠く、もはや引き返すことすらも容易ではない遥か彼方へ遠ざかってしまう。夢追いし人は、成功という通過点を目指し、敢然と進む方が良いのではないかと錯覚するのだ。

 だがこの世は非情な事に、夢は叶わない前提歩む方が賢明なのである。なぜなら叶わない人間の方が遥かに多いから。それをわからずに、一本のレールのみに固執し、いつでも元のレールに戻るための分岐点を用意しておかない。それは溺れているという表現が適切かも知れない。判断力などなんのその、自分は叶えるのだと、蛮勇を振るうのである。でもそれを、私は致し方ない事だと思う。

 夢は幻想であり、空想だ。空想を邪魔する権利は、本人以外には存在しない。夢を追う、それは人が初めて自主的に行動したということに他ならないのだ。後ろなんか向きたくなかろうし、はたまた自分が絶望する瞬間など、きっと想像すらしていない。夢を追っている最中の人間は、少なくとも自分ならできると思い込む。目標のない人間は、それを無謀な人間だなと評価するだろう。その思考は浅はかだという考えには、私は概ね同意である。でも否定は絶対にしない。事実は小説より奇なり、可能性は容易に数値化できるものではないからだ。

 私は夢を持っている。でも私は、未だ自分を信じ切ることができていない。私は思う、自分を信じれる人から、夢は自ずと実現していくのだと。夢が叶った、その後のことはわからない。自分を信じてきた人間が、どこかの地点で現実を思い知らされる時がくるかも知れない。でもとりあえず、当面にある目標は、自分が掴み取るものだ。手を前に伸ばし、一歩前進して掴み取る。この行為は自分を信じている者しか可能にはしない。二の足を踏んでいる現状は、程遠いと思った方が良さそうだ。

 自信というものがいかに大事かを、私は嫌というほど思い知らされてきた。ここで初めの話に戻るが、私がどうして怠惰なのか、それは自分に自信がなからだ。自分の手に負える問題ではないと、無意識のうちに判断を下してしまっている。どうせできない、どうせ為し得ない、どうせどうせの繰り返し。でも、これらの「どうせ」をすべて無くせるのならば? 私はとっくに夢を叶えているだろう。その自信だけは何故かある。だから、あと私に残されている問題は、「自分なら出来る」「自分なのだから出来る」「俺を誰だと思っている」そんな謂れのない自信を身につけることだけなのだろう。この問題はなかなかデリケートで、扱い方を間違えると一気に地に落ちる。そして二度と立ち直れなくなる。きっと同じような人間は、私の他にいるだろう。私は特別な人間じゃない、特殊な性癖なんかないし、集団心理には簡単に飲み込まれる。私は一般なのである。私の持つ悩みなど、ありふれている。でも、だからこそ、乗り越えられる側の人間に私はなりたい。そう強く思う。自信とは何か、それについて思いを巡らせて眠れなくなったことなんか何度もある。自分という存在が、やはり一番わからない。でもやりたいこと、それは定まっている。

 なら、手を動かす他なかろう。自信は後からついてくる。であれば当面は、自惚れるくらいが丁度よかろう。

 私はこう考える。

「男は、ちょっとイキるくらいがちょうど良い」